昭和52年02月24日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ、途中から出来た神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせぬでもおかげはやってある。」

 御理解の中でもいよいよお道の信心の核心に触れるもの。この御教えを頂いただけでも金光教の信心がどんなに素晴らしいかと言う事が実証できる程しのおかげの受けられる御教えです。言う事だけならどんなことでも言えます。けれどもそれを実証することのでけれる御教え。本気で私どもが日月の心になること、肝要として、そこに焦点を置いて信心を進められて行くところから、永遠に繋がるおかげの、それこそ天地とともに流行ることもなければ、終わりもないという程しのおかげ。
 いわゆる御神徳を受ける事が出来るのです。天地日月の心になること、そこで天地日月の心を知りたい、分かりたいという願い。昨日でしたか、研修の時にも話したことですけども、久留米の石橋先生が御晩年の頃、体が不自由になられた。福岡の吉木辰次郎先生があるときに「親先生、あなたがこうして体が御不自由になられました。それであなたが頂いとられる御神徳をどうぞ私に下さいと、あなたに代わって、あなたの言うならば、お話をしてまいります。
 どうぞあなたの御神徳を私に譲って下さい。もうあなたはお身体が不自由になられたのですから」という意味の事をお話しになりました。ところが暫く目を瞑って御祈念をしておられた。おいそれとすぐ御返事をなさらなかった。そうでしょうね、ほんとに自分が頂いておるものを本当に誰にか伝えておきたい。これは頂いておるものの、これは実感です。子供にも伝えておきたい、また信者の中にも伝えておきたい。これほど有難いものを、と思えば思うほど伝えておきたいのは、これは誰でも同じでしょう。
 だからそういう意欲的な、あなたの御神徳を私に下さい、分けて下さいと言う程しの言うならば信心。石橋先生も本当になかなか、おかげを下さいというものは沢山居るけれども、あなたの、いわゆる信心を下さい、あなたの御神徳を頂かして下さいと願うものは、そんなにざらには居らない。それを願っておるのであるから、やはりやれるものならやりたいと思われたのが暫く無言で、いわゆる心中祈念をなさったと言う事です。この辺のところが大事ですね。
 天地日月の心になること肝要だと仰せられるのですから、本気で天地日月の心を分らせて下さい。それこそ『天地の心知りたし道あらば、示せ天地己が心に』と言う切実心をもって天地日月の心になりたいというても、なら天地日月の心というのが、ならどう言う様なものなのかそれが知りたい、それが分かりたい。そういう願いを私どもがまずは立てなければ頂けません。石橋先生が暫く心中祈念をなさってから、吉木先生に仰っておられることは『御神徳とは神様の御信用ぢゃからな』と仰ったそうです。
 御神徳とは神様の御信用じゃ、もう本当に一言にして、見事に御神徳の言わば理解をつけておられますですね。それには私は、まずその天地の心が知りたい、天地日月の心が分かりたい、どうかしておかげを頂かねばならん、どうかしておかげを頂かなければならん、というのとは違うでしょう。どうかして御神徳を受けたい。そのためには、天地の心が分からなければいけない。その様々な問題を通し、さまざまな事柄を通して、天地の心を分からせて頂く。
 人間は万物の霊長だから、万物を見て道理に合う信心をせよ、道理に合う信心とはどう言う事であろうか、またあるときに石橋先生はこう教えられたそうです。『御神徳を受けるためにはね、神徳修行をしなければならん』と仰ったそうです。神徳を受けるためには特別の技、いわば行がいるというわけです。またあるときはね、自然の動きまたは自然の動植物のようなものでも、心して見ておけと。例えば庭の草木一本でも、その観察が大事だということを言っておられます。
 昨日の御理解の中にも有りましたように、神様のおかばいを受けると言う事。それは天地がかぼうて下さる、また金光大神がかぼうて下さる。これは段々内容が違う様に思う。金光大神、おかげを頂かして下されというて願う。けれどもお前の今のような心の状態では、おかげは受けられんぞと言う事になる。というてその願っておる氏子の心の状態をいかに指摘してここを改まれ、ここがいけないぞというても、中々一辺に出来るものではない。そこで金光大神が成り代わり、立ち代わってお取次をして下さる。
 只今氏子の願いますこと、まぁ言うならば道にはずれた事もあろう。けれども金光大神がいうならば足りない所を足して下さる。ひとつの願書を出す。いうならそれにはちょっと決まった、こう書かなければならないというそのう決まりがある。その書き方が間違うとれば書き直しもて下さろうし。判の押し方が間違うておったらそれもかまって下さろうし、又お金を借り行くのに証人がなからなければならないと言う時には、金光大神が証人の代りまでもして下さる様な働きが、金光大神のおかばいです。
 お取次ぎの働きとも言う訳です。だからそういうお御苦労を掛けておる、金光大神に対して、相済まんという心が生まれて来るところから、いうなら真の信心を目指さなければ相済まなくなってくる。真の信心と言うのは、昨日佐田さんが、お話になったと言う様に、おかげ目当てでは絶対ないのですから。おかげは頼まん願わんと言う、そうしてなら真の信心が分りたと。
 然も為そうと思えば子供でもなせるような、今迄雑にしておった目の粗かった生き方を変えて行こう。その上に神様の御役に立ちたい立ちたい、という一念を燃やすと言う話をされたと言う事を。昨日光橋先生が話してくれましたですね。始めからそらそうだった訳ではないでしょう、始めの間は本当にお願い、お願いにやっぱり終始された。原さん達はそうしてお願いするとを頼まん。5年も6年も結婚されて子供が出きない、そこで子供が頂きたいと言う願いが原さんの信心のそもそもの始まり。
 それから段々おかげを頂かれるに従って、そういう信心いわゆる真の信心と言う事が分って来た。本当にこの様な勿体ないおかげを頂いて、金光大神の働きでおかげを受けたのであるから、その金光大神のお働き、おかばい下さることが感じられる、分って来る所からです、ただご無理ばかり申し上げてお願いお願いでは、いけない事が分って来た。そしていうならば少しは天地日月の心が分って来た。
 神様の心が分って来た、いよいよ求めて神様の心が分れば分るほど、あれもおかげこれもおかげ、一切が神愛であることもおぼろげながら分って来た。分って来ればくるほどに親の心が分れば、親不幸が出来ない様に、天地の心が分って来たら、天地の心の添わなければおられなくなってきた。そこでお役に立ちたいと言う一念を燃やすように成って来た。お役に立ちたいと言うても力なしにはどうにも出来ない事が分った時に。力をこれは受けなければならないなと、言う事になってきた。
 そんなら力はどうして受けるかと言う所に焦点をおいて、いうなら吉木先生ではないですけれども御神徳を、石橋先生が受けとられる御神徳を頂きたい。あれが願っておるのですからそれこそゆずりたい。こんな大変なものを求められるなら、ほんとにあげたい、あげられるもんなら、只今吉木辰二郎がここに願いをしとりますから、私しの頂いておる全ての、彼にゆずり渡したいと思いますから、どうぞという神様にお願い申されたけれども。そうじゃなと御神徳というのは神様の御信用じゃからと。
 そこで悟られたのが、吉木先生惟はもういよいよもって、神様の御信用を受ける手立てをする事が先決だと、一生懸命にその事の精進をなさったに違いありません。だからこそなら、福岡教会のいうならば3代、ああいういよいよいうなら、実力のある教会として、立派な教会にしておいでられた。どういう生き方になれば、神様の御信用が受けられるかと言う事をです。
 思わせて頂く時に教えの行者にならなければならんと同時にです。いよいよ人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をしなければなれない。道理に合わなければいけない、枯れ切っておるものが天地にいかに手を差し伸べて、どうぞ伸ばしてください助けて下さいというても、助けようがないと仰せられる。枯れ木一本眺めてもそういうものが悟りとなって頂ける。
 寒中にじっと大地の温もりの中に泥の中に来る春を待っておる、いろんな植物なんかの模様を眺めては、人間がそれにわらのつと、わらの覆いをする様に。問題は生きたものを自分の心の中に頂いておらなければ、天地のおかばいも受けることはできない事が悟れる。果して自分の心の中に生きたものがあるか否か。生きたというのは生きた心というのは、叩かれて痛いと思う心が生きた心です。どうか言われてから心がむかっとする、腹が立つそれが生きた心です。
 ところが生きた心があるゆえにです、ならそういう腹が立ったりむかっときたりとする心は、いうならばさんずい偏にプラスではなくてさんずい偏にマイナスになることを悟らなければならない。そこで腹を立ててはばからしいと言う事になってくる、いらいらもやもやしたら神様の働きをマイナスにしていくばっかりになる。いよいよもって腹は立てられんぞと言う事になってくる。そこで何故腹を立てたらおかげから漏れるか、おかげから離れて行くかという事をです。
 いわば合楽理念は説くのです。そこでならそれとは反対にです、腹の立ったりなさけなかったり、例えばする様な事柄の中にでもです、結構な修行をさせて頂いて有難しと、お礼を申し上げる心がいよいよプラスにプラスをいわゆるおかげがおかげを生んでいく、いうなら神様の御信用を一つひとつ、受け止めて行けれる働きになると言う事を分らしてもらう。私し昨夜のお説教を皆さんに聞いて頂きながら、最近合楽ではすばらしいなあ、もうおかげ話てなんて言うのではなくて。
 昨日なんかは神心と言う事について、もう終始神心を聞いて頂いたんです。そしたらもう聞いとる皆さんが、本当に神心を頂かなければいかないなぁという顔をしておられる様な感じがしておりましたですね不思議に。ところがそれは数時間後にはもう薄らいで無くなって、もう朝方は無くなってしもうとる。そこでやはり振り返り、そういうなら真の話を繰り返し繰り返し、私共は頂かなければならないと言う事を感じます。
 信心はせんでもおかげはやってある、私共が頂いておるおかげを分らして貰うと言う事は、真の信心にならなければ実感として分らないです。その証拠には沢山の、それこそ世界中の総氏子におかげがやってあるけれども、ならおかげを実感しておる者が何人どれだけあるかと言う事、理屈の上では信心はなくても、天地の御恩恵と言う位のことは分っておる。天地の御恩徳なしには植物ひとつが。それこそ生きとし生きるものがお世話にならせて頂いておると言う事も分っておる。
 分っただけではおかげに繋がらない、私しはこの信心はせんでもおかげはやってある。言う事が分ると言う事は天地の心が分らなければ、天地日月の心に分ってそれに、ならせて頂こうと言う意欲的な信心になって来ない限り、頂いておるおかげをおかげと実感する事が出来ないと。はぁあ成程目がさめた、こんにちも目覚ましおかげを頂いて有り難い有り難いもう、だれでも理屈の上では分ってる。もし今日目がさめないときには、もう火葬場行きなんだとと言う事も分っている。
 けれどもどうしてこげん朝早う起きなんじゃろうかと思い目が痛いほど苦しかったり、それは有り難いものがないから苦しいんです。苦しいでしょう、又は眠たいでしょう、けれどもねその眠たいとか苦しいとか言うよりも、その有り難いという心の方が大きかってご覧なさい、50の苦しみ100のなら有難さというものであったらこれは消えるのです、もう私しゃ毎朝それを実感致します。決して楽な事じゃありません。
 けれども私の心の中にはいわば、目覚ましのおかげを頂くと言う事の苦しい、いわば起きると言う事のいうならば、しるしいと事よりもです有り難いと思う事の方が多い所に、もうそれこそこれも私だけの専売特許じゃろかと思う様な有り難さが頂かれる。だからこの信心はせんでもおかげはやってあるという、ここの最後のいわば締め括っておられます所の、これは成程日月の心になることが肝要であると言う事が分って。
 いうならば限りなく美しいものを出してもらおう、限りなく辛抱強いじっと黙って修め黙って受け抜いて自分の心の豊かになって行くことを、お礼を申し上げる様な心。然も為そうと思えば子供でもなせる様な事、ようなもうよかよか主義ではなくてそこを、実意丁寧日月の心の様な心で、それを頂ききっていく修行、そういう修行からです、初めておかげはやってあると仰る今迄気が付かなかった、ただ自分の都合よくなるおかげの事だけが見えなかったのが、それがただ氷山の一角であった。
 その根にあるところの、おかげというものは大変な事であった。それこそあれもおかげであったこれもおかげであったと解り、真の信心真の信者とと言う様な、おかげが頂けるようになって始めて、世界中の氏子にやってある、と言う様なおかげが分って来るもう、偉大なおかげが分って来る。神様をいうなら、神様を利用するとでも申しましょうか、今までの私しはあのう、日本人の宗教の観念というものは、そう言う事だけだったようにおもうですね。
 言うならば神様を使うと言う事だけであった、いうなら悲しい時も神頼み的なものであったと思うのです。そういう心がです、金光教の信心によって一掃されてくる、そして神を使うのではなくて、お役に立ちたいと言う言うならば信心が頂けて来る。然もやむにやまれぬ思いで、お役に立ちたい一念が湧いてくる。そこで美しゅうもならなければならない、辛抱強くもならなければならない。
 いわゆる天の心地の心を一つ頂かなければ使うて頂きたいと言うても、使われない事が分ってくる。そして日月の心の様ないうならば、実意丁寧なである生活態度と言うものが生まれて来る。そこからいよいよおかげをおかげと分らして頂く。いうならば真に有り難いと言う心が生まれて来る。そこに尽きぬおかげが又約束される。そういうおかげを受けてくれよと言われるのです。
 昨日私し昨日の朝聞かせて頂いたんですけど、ここの嫁さんから今度今御本部に行っとります長男の太郎さんから電話が掛って来た。もう今度の他所の教会でもう大変なおかげを頂いてで帰って来た。というてあちらでのおかげを受けられた話を、沢山お母さんにされて、そして今度二月号の泉という機関紙が出ております、その中に合楽の修行生を対象にした、いうならば記事を載せられるそうなと言う話を昨日聞きました。
 わたくしが、私しがそのご本を頂いた訳ではありませんけれども。正教君があのうあちらの友達が行かれる前に、毎月送ってもらっております、まぁ楽しんで見せて頂く訳ですけども、そういう例えば合楽から5人行っとるいものとのまぁ一問一答的な話合いもあるだろうと思うですが。合楽理念がどの様な形で話に出て来るだろうかと思うて楽しみにしております。恐らくそういう所の泉尾の先生が、まぁ合楽に興味をされた所でもあるだろうかと、これは私しの想像ですけれども、思うております。
 どうでもひとつ合楽、なら泉尾のその機関誌である所に合楽の修行生の言うならば、信心が語られる。それを特集号が出ると言う事、ですからその特集号にどういう風に現れて来ておるのか、恐らく合楽理念がどういう風にま、泉尾に響いておるだろうかと。というようにです、その合楽理念というものがなら教団なら教団自体が、言うならば合楽の信心を特集すると言った様な事にもなって来る、一つのその切っ掛けの様に私しは思います。この前の報徳祭でしたですかね。
 の時に頂きました合楽理念、よくいうと分らんから言うて聞かせるのが、私がおかげ頂くほかにない、そんな思いを致しましたら、そうではない中に入って、そして合楽理念を広めると神様は仰るのですから。合楽理念をいうなら中に入って広めて下さる。だから合楽理念を元にしておかげを受けておる、合楽の皆さんがです、合楽理念を元にしての、信心生活というものはこういうもの出して、こういうおかげが受けられるもんだと言う事を。皆さんが証を立てて下さらないとできんのです。
 そこでおかげ話どころじゃできん事でなり、いよいよもってなら今日の御理解皆さんもう一遍、何回も繰り返し頂かれたお話ですからね。この御理解7節というのは、もう何十回何十回頂いたか分りません。今日どもいよいよ肝心な、肝要であるという天地日月の心ね。それに取り組まなければです、私しは神様の御信用は付かない。又は頂いとるおかげをおかげとして実感として頂く事も出来ない。合楽理念を元にすると言う事は取りも直さず、天地日月の心肝要だというても良い位である。
 だから天地日月の心というものがもっともっと深く広く分らなければならないと言う事です。それをなら本家本元である所の、合楽のご信者さん方が合楽理念を元にしたところの信心生活が出来て行かなければならない。そして合楽理念を絶対と言われる皆さんの口から、もうこれが絶対だと、御徳を受けて行く、おかげを受けて行く、これは絶対の道だと皆さんの口から、それが言うならば実意丁寧、愛の心を持って人に伝えられて行くのでなからなければならないと言う事になりますから。
 この御理解7節をもっともっと深く広くいよいよ分ると言う事が肝要だと言う事になるのです。又それを行の上に現して行かなければならないと言う事になるのです。もう合楽の皆さんの場合はどういう様な例えば問題であろうが、合楽理念をもっとうに、合楽理念を一つの土台にしてその問題が、考えられておるかとどうかと言う事を考えなければならない程しに。だからこの頃は合楽理念がどういう事だと言う事はこの頃4、5日説きませないですね。説かないでしょう。
 合楽理念を持ってするならばいう風にしか説かんです。いうならば合楽理念は皆さんが一応マスターできておるのが分っておるとして。言っておるのです、だから皆さんがさいじゅんびされて。合楽理念をもっとうにした言うならば生活がなされる。それが天地日月の心を心としていく生き方にもなるのですから。いよいよ体験を持ってそこを頂き現していくおかげになってこなけりゃならんと思います。
 そして言うならば今後がです、言うならば世界の宗教者全部がです、合楽理念を取り上げてそして本当の人間氏子の助かっていく、神様も助かって行って下さるいうならば。働きにもなって来なければならない程しの原動力ともならなければならないのですから。もう日々言うならばそこんところへ取り組んで合楽理念と言う事がどう言う事かと言う事を身を以て実証出来れる御信心を身に着けて頂きたいと思う。
   どうぞ。